私がアメリカへ留学したのが、今から40年前の1970年代の終わりの頃。
日本の大学では商学部に入っていたけど、授業をサボリ、ロックバンド活動に明け暮れていた。
気が付くと就活をすることなく卒業式を迎えブラブラしていた。
そんなある日、サンフランシスコに母方の遠縁にあたる日系人家族が住んでいると聴き、
そのファミリーを頼ってサンフランシスコへ渡った。もちろん外国に行くのは初めてだった。
9時間のフライトの後、雲の切れ間からアメリカ大陸が見えた時は、とても感動した。
空港に着くと、ゲートの出口でジョン・フジムラとその家族全員が私を迎えに来てくれていた。
ジョンは次男坊として広島で生まれ、今から120年前に横浜港からサンフランシスコの港に向け24日かけて渡ったそうだ。
当時の日本はとても貧しく、長男以外は新天地を求めて、裸一貫で船に乗り込み、海外へ移住したそうだ。
ジョンは日系人の中でも長老ですでに85歳を超えていた。
ジョンがサンフランシスコの港に着いたとき、1人の日本人から日本語で「仕事を世話してやろう」と声をかけられ、
誘われるがままに列車に乗り込み大陸奥地まで連れて行かれたという。
しかし、その先に待っていたものは、大陸横断鉄道を作るための半ば強制労働だったそうだ。
言葉も通じない場所で日本語で声をかけられ、つい心を許してしまったという。
同様に声をかけられ、連れてこられた1人の日本人と隙をみて逃げ出し、線路沿いにひたすら灼熱の砂漠を西へ西へと歩き、
何日もかけてやっとサンフランシスコにたどり着いたそうだ。
それから仕事を探し回っていたある日、大富豪と出会い、彼の邸宅の庭師や風呂焚きとして雇ってもらい、
そこで、なんとか生活の糧を得たどうだ。
ジョンは、まじめに働き続け、やがて彼の仕事ぶりを認めてもらい、少しづつお金をためてきたという。
ところが、1942年に真珠湾攻撃を機に日米開戦が勃発し、長年アメリカで築いてきた日系人の信用と財産は、アメリカ政府により没収され、家族全員がマンザナール強制収容所に収容されたとういう。
強制収容所生活が終わった1945年、ジョンは、あの大陸横断鉄道の強制労働から命からがら逃げてきたもう1人の日本人と一緒に、日本にアメリカ車を輸出する会社を立ち上げたそうだ。
彼ら二人が売り込んだ先はあのヤナセの前身だったそうだ。真っ赤なじゅうたんを歩いた先には、
会長が待ち受けていて、それから交渉が始まり、その日の内に数十台のオーダーを受けた。
もう1人の相棒は、東京で日本初のタクシー会社をつくったのを皮切りにバス会社やアメリカ発の事業を次々と興し、事業家として、大成功したそうだ。
彼は30年以上に渡り記録し続けた株式チャートを拡げ、毎晩夜中の2時過ぎまで株式投資についてレクチャーしてくれた。
サンフランシスコのダウンタウンに近いクレメント・ストリート、27番アヴェニューにあるジョンの書斎でジョンのファミリー・ヒストリーを聴くことができたのは、ビジネススクールで聴いた講義よりも臨場感があり、その内容を今でもはっきりと覚えている。
さまにジョンは私にとってビジネスの偉大なメンターだった。
私はサンフランシスコ大学大学院ビジネススクールで2年間ビジネスを学んだが、当時投資家だったジョンからアメリカの資本主義社会やアメリカのビジネスについて教わった。
今でも印象に残っている言葉は「アメリカ人の金持ちの中で、株式投資以外で金持ちになった人は1人もいない」
というジョンの言葉だった。
Thank You, Jhon!